○ 『地球はボクのもの』 ○

 忙しげに響き渡るキーボードの音を遮って、コールサインが局長の意識を引いた。ほとんど無意識といってもいい自然な操作でコンタクト・キーを押すと、モニターを埋めつくしていた長い文章が女性の顔に変わる。
「……どうした? いまは忙しいといっておいたはずだ。緊急の用でないなら……」
 口を開いている間も、局長の指は文章を紡いで止まらない。通信画面は自然に縮小し、邪魔にならないところへと移動していった。
「いえ、緊急の連絡というわけではありませんが、おめでとうの言葉くらいは伝えさせてください。
 たったいま入ってきた報告によりますと、ヒュー・ガイア・プロジェクトは達成率九九・九%を迎えたそうです。修復、および改造工事はペースを維持しておりますから、一両日中には完全達成を迎えることでしょう。
 スタッフ一同、心からお祝いを申し上げます」
「気が早い」
 局長の言葉はそっけなかった。
「ですが、計画はもう九分九厘……」
「わたしが求めているのは一〇〇%の成功だ。それ以外ではまるで意味がない。
 何度も繰り返したことだが、達成間近だからといって気を抜くな。H・G・Pは、どこから破綻したとしてもおかしくないほどの大きな計画なのだ。些細なミスも許されない。
 常に……、そうわれわれは常にこの計画の持つ意味と、そこに関わってくるものの大きさを頭に入れておかねばならん」
 厳しい口調を受け、華やいでいたオペレーターの表情が落胆に沈む。
「もうしわけありませんでした。以後、気をつけます」
「……まあ、『以後』というのがごく短い時間となるよう努力することだ。プロジェクト達成のあかつきには、ともに喜びを分かちあおう」
「はい、三〇年越しの計画ですからね。
 一刻も早く、局長があのワインが飲めるよう、われわれも努力します」
 局長の表情が一瞬曇る。その視線はモニターから離れ、ケースに眠る三〇年物の瓶を一撫でした。
「いや、わたしは飲めないよ。あれを一緒に楽しむ者たちはもういなくなってしまったのだ。わたし一人では……。
 ……おそらく、計画達成のその瞬間に、わたしはあの瓶を叩き割るだろう」
「しかし、局長……」
「それよりも、プロジェクトの終了は間近だといったな」
「はい。間もなくのはずです。もちろん、完成の瞬間にはお知らせいたしますので、コールサインだけは携帯を……」
「そういうことではない。
 ……『客室』の扉を開けてくれないか? 『彼』と話をしてみたいのだ。反逆者たちを束ねた男がH・G・P達成を前にして何を考えているのか、非常に興味がある」
「え? ですが……」
「ですが、とはなんだ?」
 強い口調にオペレーターの表情は引きしまる。
「あ、はい。わかりました。少々お待ちください」
 モニターの向こうで、オペレーターは端末のキーを叩きはじめた。局長は無表情にそれを見守っている。
「お待たせしました。用意が整いましたので4−62番にお越しください」
 小さくうなずき局長は席を立つ。瞬時にモニターは黒く染まり、インフォメーション・ロックを示すサインが赤く点灯を始めた。
 ドアの前に立った局長が扉右手のコンソールに「4−62」と数字を打ち込むと、軽い排気音を立てて扉が開く。
 足元に待機していたエイのような形のポーテーション・システムが、局長の体重を受けて静かに浮き上がり、その身体を「客室」へと運びはじめた。
(三〇年……か。わたしも年を取ったはずだ)
 局長は深くしわが刻まれた自分の手を見つめる。
(……汚い手……。かつて、キャンパス時代に多くの男を魅了したなど、誰が信じてくれよう。無理をして身に着けたはずの男言葉もすっかり板について……。
 だが、すべてはこの社会をつくるため……。この社会、この世界はわたしの力で大きく変わったのだ。わたしはこの手を誇りに思わねばならん)
 拳を握りしめた彼女の遠くを見つめるような瞳には、三〇年前の地球が映っていた。それは他の生き物に遠慮しながら人が生きていた息苦しい世界である。
 ある思想家が説いた「もっと安心を……」という理念がなければ、世界はこうもは変わらなかったことだろう。当時の人々は、まったく疑問は抱いていなかったわけではないにしろ、自分たちの置かれた状況をある程度納得している節があったのだ。
(だが、彼らを責めることはできまい。わたしもそうだったのだ。
 あのとき、メディアが伝える彼の言葉は「狂気」そのものにしか思えなかった。たしかに関心は覚えたが、それは心理学の研究対象としての興味であり、それ以上のものではない。
 ……だが、大学の研究の一環として彼に直接相対する機会を得たとき、わたしは天啓を受けた。彼の言葉こそが正しいのだと、わたしの中の「何か」が訴えかけてきたのだ。
 以来三〇年……。わたしは彼らとともに働き、人間のための地球改造計画「ヒュー・ガイア・プロジェクト(H・G・P)」を進めてきた……)
 いくつかの区画を横切って進んだポーテーション・システムは、やがて一つの扉の前で静かに降りる。局長は数年ぶりに自分の手で扉を開けた。
 この通路から先は、システムの管理下から外されているのだ。明かり一つを用意するにしても、人は自分の手でスイッチを押さなければならない。さすがに局長は不機嫌そうな表情を隠しきれなかった。
(……最初は人々の意識改革から始めなければならなかった。
 計画が実働レベルに移行するまでに五年を要したほどだ。あれが、プロジェクトやわたしたちにとって二番目に苦しい時期だったことは間違いない)
 局長は足を乗せても動き出さない通路を見下ろし、小さく嘆息する。
(だが、苦あれば楽ありというべきか。最初の障害を乗り切ると、プロジェクトは国家規模に、世界規模にと瞬く間に成長していった。われわれの正しさはこの成功が語っているのだろう。世界が一丸となるなど、それまではとても考えられなかったことだ。
 皆がすばらしい世界を夢見ていた。そして、それをわれわれが少しずつ現実のものとしてゆくのだ。地球の改革は急ピッチで進んでいった。
 ……指導者の死すら、その障害にはなりえなかった。これは跡を継いだわたしの腕にもよるものなのだろう。完全に実権を握って以来、わたしは内なる声に命じられるまま計画を押し進めていったが、当時の地球の変化は、以前にも増して劇的なものだった)
 行く手に白い明かりが見えてくる。
(しかし、急激な状況の変化は多くの脱落者を生む。特に始末に終えないのが懐古主義者たちだった。
 わたしの腕は、逆に多くの敵をもつくり出してしまったらしい。当初はごく小さかった彼らのヒステリックな行動は、ある時期、強力な指導者を得て無視できないまでに成長したのだ。……彼らを率いた指導者、彼の名は……)
 その名を刻んだ白いネームプレートが局長の目に入る。すぐに強化ガラスで遮られた小さな部屋が行く手に見えてきた。
「ひさしぶりだな」
「ああ、誰かと思えば局長殿ではありませんか。このようなむさ苦しい所へわざわざのお越し、恐悦至極に存じます」
 演劇じみた大げさな礼を送った後、捕らわれ人は酒を煽る。局長は眉をひそめた。
「むさ苦しいところで悪かったな。こちらとしては、おまえにこれ以上の環境を与えるわけにはいかないのだ。システムから完全に切り放しておかないと、またどんな悪さをされるか知れたものではない」
「いえいえ、住んでみればここも快適ですよ。行動以外に束縛されることはないし、食事はもちろん酒も出てくる。
 飲んでみますか? なかなかいいお酒ですよ」
「断る。わたしは近しい者や、一緒に酒を楽しむ仲間を失ったのだ。もう、酒を飲むことはない」
「それはそれはお気の毒に……」
「……誰のせいと思っているのだ?」
 肩をすくめて笑みをつくると、捕らわれ人は酒に手を伸ばす。
「では、失礼して俺だけでも……」
「プロジェクトは間もなく完成する」
 唐突に紡がれた言葉を受けて、硬質ガラスの牢の中で男の動きが止まった。しかし、それも一瞬のことである。グラスを空けて大きく息をつくと捕らわれ人は、
「……で?」
「『で?』とはなんだ。他に何かいうことはないのか」
「でしたら、『おめでとうございます』とでもいいましょうか? あなたは環境管理局の局長として数々の危機を乗り越え、めでたくその三〇年来の任を果たしたわけだ。賞賛に値することです」
「……数々の危機か。たしかにH・G・Pは多くの障害を乗り越えなければならなかった。人々の意識の改革、完全中央集権型の世界政府の設立、そして指導者の死……」
 続く言葉を遮るように、捕らわれ人は口をはさんでくる。
「最後の一つは危機に入りませんよ。彼亡き後、局長殿はプロジェクトを見事に引き継いだではありませんか。……むしろ、あなたこそがキーだったのですよ」
「かもしれん。そのことについて謙遜をするつもりはない。
 そして、われわれにとって最大の障害はおまえだった。おまえの率いる反体制派の活動は多くの犠牲者を生み、プロジェクトを三年にも渡って停滞させたのだからな。三〇年の仕事の中で、わたしの頭をもっとも痛めたのは、おまえたちの行動だったよ」
「これはまた、ずいぶんと昔の話を持ち出してきましたね」
「古い話? おまえたちの残した傷跡はいまなおプロジェクトの障害として残っているのだぞ! われわれにとって、おまえたちとの戦いはまだ終わっていないのだ!」
「それも、もうすぐ終わるんでしょう?」
「スタッフたちの苦労のおかげでな」
「だったらいいじゃないですか。われわれは失敗し、あなたは成功した。ただそれだけの単純な理屈です。
 単純な勝敗……。そう、局長殿を殺しそびれた時点で、俺にはこんな結末がはっきり見えていました。俺にとって意外なことなど何一つありませんよ」
「わたしが死ぬものか」
 ふと口からもれたつぶやきを聞きつけ、男の表情からおどけたような調子が消える。
「前にもいっていましたね。H・G・Pに関わるようになって以来、あなたは死の恐怖を感じたことはなかったと……」
「自惚れと笑いたければ笑うがいい。理由はわからないが『計画の達成まで死ぬはずがない』という漠然とした感覚がわたしの心を麻痺させていたのだ」
「笑えるはずもないでしょう。われわれが立てたあの暗殺計画をなんの準備もなしに退けられたとなれば……」
「あのとき、おまえは本気でわたしを殺そうとしていたのか?」
「もちろんですよ。わたしがわざと狙いを外したとでも?」
 小さく唇を噛みしめると、局長は強い口調で質問を発した。
「……これまで、何度もはぐらかされた質問だが、今日こそは答えてもらうぞ。もはや隠し立てをする意味などないはずだ。
 なぜ、おまえはプロジェクトの邪魔をした? おまえは懐古主義者ではない。古い形の『人と自然の調和』しか受け入れられない人間ではないはずだ。
 ……いや、それどころか、われわれの考えの方が肌に合うはず。わたしよりも深く長く彼に接していた人間は、この世界でおまえ以外にいないのだからな」
「でしょうね。親父はいつも俺に新世界の思想を語ってくれていました。すべてが人造物で築かれた『鋼の宝石』をこの手でつくるのだ。おまえもその夢のために働けと……。
 あの頃は幸せだった。親父の理解者は俺と局長殿だけだったから……」
「幸せというなら、なぜ、それを捨てた! なぜ、わたしたちを裏切るような真似を……」
 大きな息を吐くと、捕らわれ人はあきらめたようにつぶやく。
「いったら笑われるでしょうが……、俺は怖かったんですよ」
 初めて聞き出した理由に環境管理局の局長は呆然と首を振る。捕らわれ人の紡いだ言葉が、彼女にはまるで理解できなかったのだ。
「……『怖い』?
 われわれの求める世界は何より怖さを取り払うためのものだ。すべての不満とすべての不安を取り除いた人のためだけの世界。それはおまえも理解していただろう!
 システムはあらゆる物からわれわれ人間を守ってくれる。そのどこに恐怖がある? いったい何が怖いというのだ!?」
「原因や理由がわかるなら、怖いなんていいませんよ。
 ……ただね、親父が死んで、H・G・Pを局長殿が握ってからというもの……」
「やはり、それが原因だったのだな。自分がプロジェクトを継げなかったから、わたしを恨んで……」
「それなら局長殿だけに復讐しますよ。俺が考えていたのはそんなことじゃない」
「だったら何を……」
「局長殿が指揮を取るようになってから、H・G・Pは加速度的に進んでいった。当初の構想からたった三〇年で計画が完成するなど、親父だって予想していなかったに違いありません」
「それはわたしも同じだ。とんとん拍子という言葉でも追いつかないほどの勢いがあった。しかし、それがどうしたというのだ?」
「……『自転車』……を覚えていますか?」
 突然の話題の転換に面食らいながらも、局長はかろうじてうなずく。
「旧時代に使っていた二輪の人力車のことだろう。それがどうした?」
「俺はね、H・G・Pというものをあの自転車みたいに捉えていたんですよ。自分たちが立案し、手掛け、すこしずつ完成させてゆく感覚は、自分の力でハンドルとペダルを操って動く自転車に似ているとは思いませんか?」
「理解できないアナロジーではないが……」
「局長殿は、あの乗り物を操っているとき誰かに無理やり後押しされたって経験はありますか?」
 もたらされた質問に記憶を探ろうと宙をさまよっていた視線はやがて止まり、局長は口を開いた。
「……ある……な。子供の頃、友人がふざけ半分に……。あれは怖かった」
「で、どうしました」
「必死になって足を……」
 彼女はふと言葉を区切る。軽く開いたその瞳は、驚きのあまり焦点を失いかけていた。
「それが……理由なのか? まさか、そんなくだらない、子供じみた理由で……」
 自虐的な笑みを浮かべ、捕らわれ人は軽く首を振る。
「そういわれても仕方がないでしょうね。俺自身、そう思っているくらいですから……。
 でも、俺はたしかに怖かった。いまもその不安は消えません。……誰かに、いや『何者か』に後押しされたH・G・Pがどこに行き着くのか……」
 拳を固く握りしめて小さく震える局長の姿を強化ガラスの壁ごしに認め、捕らわれ人は言葉を切った。
 老いを感じさせる女の拳がガラスの壁を叩く。
「くだらない……。あまりにくだらない! そんな理由で、おまえはわたしを裏切り、数万単位の人間を消し去ったというのか!? こんな男にわたしは……」
 唇を噛みしめ、局長は続ける。
「……わたしはいまこそあなたに見切りをつけました。プロジェクトの完成と同時に、あなたの処刑を決行します!
 もうあなたに対しては、義理も未練も……、愛すら残ってない!」
 ガラスを殴りつけた手には薄く血がにじんでいたが、システムの管理から外れた「客室」エリアでは救急装置も作動しない。長らく忘れていた痛みに局長は薄く涙を浮かべた。あるいは、その涙の意味は、彼女自身気づかないところにあるのかもしれない。
 崩れた表情を隠すように、局長は強化ガラスに背中を向ける。捕らわれ人は、かつての恋人の背中に昔の口調で声を掛けた。
「『自然な生き方を選んだものは生き残る』……。ある特定の種が生存しつづけるということは、その種にとってその生き方が自然ものだったという証になるのだろう。
 H・G・Pが完成し、システムの中で人類が生き残るならそれでいいさ。俺が解釈を間違っていたというなら責任は取る。
 ……でもな、考えたことはないか。あまたの生物を抱えていたこの地球で、どうして人間だけがこんなにも風変りなのか……。なぜ人間だけがこんな生き方を許され、この地球に傷跡を残していくのか……」
「理由なんてないわ。それが人間にとって自然な生き方だからよ。だから、われわれはここまで繁栄してきたんでしょう」
 「客室」に背中を向けたまま局長は応じる。
「……そうだろうか?
 いや、しかし、そうでないとしたら、いったい誰が望んでいるんだろう? こんな地球になることを……」
「馬鹿なことをいわないで。人間以外の何物がこんな世界を望むというの?
 人類に淘汰された動植物たちが滅びを願っていたとでも? それとも、地球が『鋼の宝石』への変化を望んでいたというのかしら」
「わかっている。そんなことはわかっているんだ。……だが、それでも俺は、誰かが、あるいは『何物』かが望んでいなければ、こんな急激な変化は起こらなかったと思う。
 別に、神や悪魔とかいう存在を信じているわけじゃないが……」
「だったら……」
「……以前、酒を飲んでいたとき、ふと思ったんだ。
 この酒って奴は厳密に自然の産物とはいえない。人間が植物の実に菌を植えつけ、醗酵させてつくるものだろう?
 もし、人間という特異な存在が、地球を『食べ』やすくするために『何物』かによって植えつけられた菌のようなものだとすれば……。
 ……いや、ばかばかしい話だ。俺は酔っているんだろうな」
 局長の懐で、コールサインの音が鳴った。
「サインが来たわ。いま計画が終了したらしいわね。さよなら、あなたの命も……」
 彼女は言葉を不意に区切る。ちょうど捕らわれ人が大きく目を開け、口元で人指し指を立てようとしているところだった。
「……い、いま、何か聞こえなかったか?」
 男の声は震えている。そう、彼らはたしかに聞いたのだ。
「たしか、『いただきます』……って!?」
 二人が顔を見合わせた瞬間、地球は闇に閉ざされた。



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